140/366日・・・5月19日は何の日?
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- 小諸・山頭火の日
- IBDを理解する日
5月19日が誕生日の有名人
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- 安藤政信
- 小田智之
- 三觜要介
- 飯田雅司
- 荘口彰久
- 芹那
- 齋藤稜駿
- ケビン・ガーネット
- 澤部佑
- 佐藤拓也
- 齊藤稜駿
ボクシングの日
<ボクシングの日>由来
1952年5月19日に後楽園球場(現後楽園ホール)で開催された世界フライ級タイトルマッチで、プロボクサーの白井義男が勝利し、日本人で初の世界チャンピオンが誕生しました。その日を「ボクシングの日」として制定しています。
白井義男
アルビン・カーン博士との出会い
白井義男は1943年、戦前にプロデビューし、その後すぐに召集され、海軍航空隊に入隊し、戦闘機の整備兵として働きました。戦後、プロボクサーとして復帰し、1948年に日拳ホールで練習していた頃、のちに彼の師となるアルビン・カーン博士と運命の出会いを果たします。
ボクシングの経験がなかったカーン博士ですが、一目見て白井の才能を見抜き、指導を買って出たといいます。ただし、博士は理学士の学位を持ち、スポーツにおけるタイミングの重要性やコンディショニングについて独自に研究していました。この当時、博士はGHQの天然資源局のスタッフとして来日中でした。
軍隊生活で腰を傷め、復帰後は3度の敗北を経験し、低迷していた白井は、カーン博士の指導を受けて、日本フライ級、日本バンタム級王座を獲得し、上昇気流に乗っていくことになります。当時の日本は食糧事情が悪かったのですが、博士が用意した食事により栄養状態が改善され、「腰痛を克服できた」と白井はのちに語っています。
日本ボクシングコミッション(JBC)誕生
1951年に世界王者のダド・マリノ(米)と後楽園球場で初めて対戦することになりました。最初は「世界チャンピオンなんて雲の上の存在」と白井は断ったそうですが、結果は大健闘の末に1-2の判定負けという結果で終わりました。しかし、自信をつけた白井は半年後、敵地ハワイで再びノンタイトル戦を行い、2回に1度、6回に3度、7回に2度のダウンを奪い、7回TKO勝ちを収めます。白井はのちにこの勝利を「私のボクシング生活の中でもベストバウトと呼べる」と語っています。
日本における初めての世界タイトルマッチが実現したのは、翌1952年でした。当時、日本は敗戦から日の浅い状況であり、コミッションが存在していなかったため、急遽日本ボクシングコミッション(JBC)が設立され、世界タイトルマッチが開催されることになりました。
日本初、ボクシング世界タイトルマッチ
後楽園球場には4万人を超える観衆が集まり、日本初の世界タイトルマッチが行われます。
アメリカ人のカーン博士は試合前に白井にこう語ったといいます。
「日本は戦争でアメリカに負けたが、今の日本で世界に対抗できるのはスポーツだけだろう。キミは自分のために戦うと思ってはいけない。キミの勝利で日本人の気力と自信を呼び戻すのだ」(『ボクシング100年』日本スポーツ出版社より)。
白井は強打のマリノに対し、持ち前のスピードを生かしてアウトボクシングを貫きました。7回、マリノの左フックを受けてダメージを受け、ゴングに助けられた後、カーン博士が「ウェイク・アップ!ヨシオ!!」と叫んだ逸話は非常に有名です。
これにより目を覚ました白井は15ラウンドを戦い抜き、日本に初めて世界チャンピオンベルトをもたらしました。当時、テレビ中継こそありませんでしたが、ラジオの聴取率は83%を記録しています。
その後
白井選手は、世界フライ級王座を4度防衛しましたが、5度目の防衛戦でアルゼンチンのパスカル・ぺレスに敗れて王座を失いました。そして、再戦でもぺレスに敗れ、ボクシンググローブを壁にかけて引退しました。
引退後は、テレビや新聞の解説者を務めたり、白井・具志堅ジムの名誉会長を務めたりしました。白井選手は身寄りのないカーン博士と一緒に暮らし続けましたが、カーン博士は1971年に亡くなりました。そして、白井選手自身は2003年12月23日に80歳で人生に幕を下ろしています。
白井選手が初めて世界チャンピオンになった5月19日は、日本プロボクシング協会(JPBA)によって「ボクシングの日」と認定されています。この日にこだわって世界戦を開催し、小堀祐介選手がホセ・アルファロを下してWBAライト級王座を獲得したのは、2009年5月19日のことでした。