145/366日・・・5月24日は何の日?
- 伊達巻の日
- ゴルフ場記念日
- 伊達巻の日
- コモンウェルス・デー
- 長湯温泉「源泉のかけ流し」記念の日
- コニシ記念日
- スクーバダイビングの日
- 菌活の日
5月24日が誕生日の有名人
- 哀川翔
- 小林聡美
- 河相我聞
- 小林莉加子
- 武田祐介
- 上杉昇
- 佐々木則夫
- 田中浩康
- 瀬戸大也
- 梅田えりか
- 莉犬
- 山下健二郎
伊達巻の日
<伊達巻の日>由来
5月24日の「伊達巻の日」は伊達巻が好物だったと言われている戦国武将・伊達政宗の命日が由来となっています。
伊達政宗
逸話 ~小田原城攻め~
伊達氏は当初から豊臣氏の支配に不服従であり、自由な姿勢をとっていたました。また、同じ立場にある東海の徳川・関東の北条とある種の連合を組んでいた為、本来は政宗は北条側に付くべきだったと言えます。実際、北条氏は天下の名城・小田原城に篭り、伊達氏からの援軍を期待していた節もありました。
しかし、政宗は北条を見捨てて豊臣氏に協力することを決定し、小田原城に向かいました。大軍の包囲と秀吉の機敏な動きを目の当たりにして、抵抗することは無駄だと判断した為の行動です。彼は野心家として知られていましたが、苦渋の決断をしたのでしょう。
そんな政宗ですが、出発前には母の義姫から毒殺されかけた上、大回りして関東を通過したため、小田原城に到着した時にはすでに遅刻状態でした。そのため、政宗はしばらく幽閉され、使者に詰問された後、ようやく秀吉に謁見することを許されるのでした。
しかし、政宗は非常に大胆でした。彼は幽閉されている間、「千利休殿に茶を学びたい」と申し出たり、秀吉と会う際には白衣の死装束を身に着けて挑んだりしました。この勇気はむしろ秀吉に高く評価され、杖で首を叩かれながら「もう少し遅れていたらこの首は無かったぞ」と笑いながらも遅刻を許されることになったといいます。
やがて小田原城が落ち、北条氏が滅び、秀吉は東北に進んで諸大名を降伏させ、天下統一を達成させました。そして、豊臣政権の時代が始まる中で、政宗は自らの領地を(一部は取り上げられたものの)守ることに成功しています。小田原攻めの背後に隠れた政宗の決断と勇気が、彼の成功の背景になっています。
年表
・1567年(0歳)
伊達輝宗の長男として誕生したのは、現在の山形県米沢市。
・1571年(4歳)
疱瘡(天然痘)に罹り、右目を失う。
・1577年(10歳)
元服を迎え、伊達源次郎政宗と名乗るようになる。
・1579年(12歳)
陸奥国磐城三春城城主・田村清顕の娘「愛姫」と結婚する。
・1584年(17歳)
伊達輝宗が隠居し、政宗が伊達家17代目当主となる。
・1585年(18歳)
小手森城なで斬り事件や粟之巣の変、人取橋の戦いに出陣する。
・1588年(21歳)
大崎合戦に出陣し、出羽国(山形県)の最上義光と和睦する。
・1589年(22歳)
摺上原の戦いで蘆名義広を破り、奥州南部を平定し、合計114万石を支配下に置く。
・1590年(23歳)
豊臣秀吉に従い、小田原征伐に参加する。
・1592年(25歳)
文禄の役に出陣し、豪華な装束で参戦して「伊達者」と呼ばれるようになる。
・1597年(30歳)
豊臣秀次が切腹する事件に関わったことで謀反の疑いをかけられる。
・1600年(33歳)
関ヶ原の戦いで東軍に味方し、上杉家家老・直江兼続と戦う。
・1601年(34歳)
仙台城を築城し、初代仙台藩主に就任する。
・1613年(46歳)
家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣し、慶長遣欧使節を行わせる。
・1614年~1615年(47~48歳)
大坂冬の陣・夏の陣に出陣し、手柄を立てる。
・1636年(69歳)
腹膜炎または食道がんのため人生に幕を下ろす。