84/366日・・・3月24日は何の日?
- 壇ノ浦の戦いの日
- 世界結核デー
- 著しい人権侵害に関する真実に対する権利と犠牲者の尊厳のための国際人権デー
- ホスピタリティ・デー
- マネキン記念日
- 連子鯛の日
- 人力車発祥の日(日本橋人力車の日)
- 恩師の日(「仰げば尊し」の日)
- 未来を強くする日
3月24日が誕生日の有名人
- 天野ひろゆき
- 持田香織
- 綾瀬はるか
- くわばたりえ
- 羽鳥慎一
- 原田泰造
- アンダーテイカー
- 滝川英治
- 山本愛
- 井岡一翔
- 山田麻莉奈
- 島田紳助
壇ノ浦の戦いの日
<壇ノ浦の戦いの日>由来
治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦における最後の戦い、壇ノ浦の戦いが起こったのが、1185年3月24日だったことから「壇ノ浦の戦いの日」となったようですが、制定者はいないようです。
壇ノ浦の戦い
戦いに至るまでの経緯
平清盛は1156年の保元の乱で勝利し、1159年の平治の乱で源氏の棟梁である源義朝を倒し、平氏の勢力を強めます。平清盛は朝廷の最高職である太政大臣にまで昇り、娘の平徳子を高倉天皇に入内させて権力を握りました。平氏一門は朝廷の要職を占め、日宋貿易によって莫大な富を手にし、全盛期を謳歌します。「平家物語」には、「平家にあらずんば人に非ず」という言葉も登場するほどです。1178年に平徳子は言仁親王を授かり、言仁親王は後に安徳天皇として即位しました。1180年には平清盛は後白河法皇を幽閉し、高倉天皇が譲位して安徳天皇が即位しました。
平氏は安徳天皇を擁して権力を振るい、内部でも不満がありました。その中で、後白河法皇の第3皇子である以仁王が平氏の抑圧を受け、親王宣下を受けられずにいました。以仁王は源頼政と手を結び、平氏追討の令旨を下しますが、挙兵は失敗し、以仁王や源頼政が命を落とします。しかし、以仁王の志は源氏諸将に伝わり、源氏と平氏が繰り広げた「源平合戦」の始まりとなりました。
1180年8月の石橋山の戦いでは、源頼朝率いる兵力不足の源氏軍が平氏軍に敗れ、頼朝は命からがら安房国へ逃れました。しかし、1180年11月の富士川の戦いをきっかけに源氏方が押し返し、1183年の倶利伽羅峠の戦いで平氏は大敗を喫しました。平氏は京都を逃れ、最後の拠点として長門国彦島に立てこもり、源氏との決戦に臨むことになったのです。
戦い緒戦
源頼朝は、屋島の戦いの直前に異母弟の源範頼に3万騎を与え、九州征伐を命じ、北条義時、三浦義澄、比企能員、和田義盛など主要な武将が参加しました。源範頼軍は兵糧の不足と平氏軍の水軍に苦しめられましたが、豪族の緒方惟栄らの支援を得て九州に渡り、葦屋浦の戦いで勝利し、平氏軍の退路を遮断しました。同時期、源頼朝の異母弟の源義経は、屋島の戦いで平氏を破り、平氏軍は彦島で孤立することになりました。
平氏は彦島に追い詰められましたが、500隻の水軍を保有しており、それらに対する源氏軍総大将の源義経は摂津国、伊予国、紀伊国などの840隻以上の水軍を味方につけました。合戦を前に行われた軍議では、自ら先鋒を務めるとする源義経と、梶原景時が対立する一幕があり、この諍いは二人の行く末に影を落とすこととなります。両軍は壇ノ浦で激突し、源氏軍は陸地に布陣して平氏の水軍を遠矢で援護し、平氏の退路を閉ざしました。弓の名手である和田義盛は馬に乗って岸から岸から三町(約330m)先の平氏軍を攻撃したと言われています。
平氏は潮流を利用して海戦に不慣れな源義経軍を翻弄し、源義経軍は壇ノ浦の東に位置する満珠島・干珠島辺りまで押し戻されました。これに対し源義経は平氏方の兵船の漕ぎ手を射る禁じ手を使って戦況を一変させたという説もありますが、真偽は定かではありません。また、平家物語によると、平氏に与した阿波重能が源氏方に寝返ったことで平氏の作戦は効力を失い、平氏軍と源氏軍の優劣は逆転しました。
源氏の反撃、そして平氏の滅亡
壇ノ浦の戦いでは、潮の流れが源義経軍に有利に働き、彼らが猛反撃を仕掛け、平氏の水軍が壊滅しました。その後、源氏軍は次々と平氏軍の船に乗り込み、兵士や漕ぎ手を殺害しました。平氏軍指揮官の平知盛は、女船に乗り移って掃除を始め、女官達に対して荒くれ者揃いの坂東武者達が乗り込んでくるから辱めを受ける前に自ら命を絶つようにと諭しました。
二位尼は平知盛の言葉に従い、三種の神器のうちの神剣(草薙剣)と神璽(八尺瓊勾玉)を持ち、孫の安徳天皇を抱いて海に身を投げました。建礼門院と平氏の女性たち、そして平氏の武将たちも次々と入水しました。平宗盛は泳いで逃げようとしたが、捕まりまってしまいます。建礼門院は引き上げられて助かりました。
平氏一門が壇ノ浦の戦いで次々と入水する中、最後まで戦ったのは平教盛の次男で猛将として知られる平教経でした。敵の大将である源義経を探し出すため、源氏軍兵士をなぎ倒しながら源義経の船に乗り移りました。しかし、源義経は迎え撃つことなく、ひらりと別の船へ飛び移り、8艘先まで離れ去ってしまいました。これが「源義経の八艘飛び」です。平教経は、もはやこれまでと腹をくくり、2人の兵士を道連れに海に飛び込みました。平教経の死については正確にはわかっていませんが、「吾妻鏡」では一ノ谷の戦いで討死したという記述もあります。平知盛は、最期まで平氏一門を見届けた後、乳兄弟の平家長と共に入水し、戦いは終結しました。
平家物語で、「平家にあらずんば人に非ず」という言葉を発した平清盛の義弟、平時忠ですが、平家物語には、「驕れる人も久しからず」という一文もあり、権力に酔っていた平氏は治承・寿永の乱で敗北し、「驕る平家は久しからず」という言葉が生まれました。
戦いの後
鎌倉時代の源頼朝は、九州を支配していた源範頼に命じて、平氏が持ち出した三種の神器と安徳天皇を京都に戻すよう指示しました。しかし、安徳天皇は死去し、三種のうち神剣は海に沈んでしまい見つけ出せなかったため、源頼朝は源範頼に神剣の捜索と戦後処理を命じましたが、見つからず、源範頼は鎌倉に帰還しました。草薙剣は後に、伊勢神宮から贈られた神剣を形代として伝えられ、現在は熱田神宮の御神体として祀られています。
源義経は捕虜を連れて都へ戻る事になります。中には救出された平氏一門や朝廷に仕える人々も含まれていました。京へ凱旋した源義経と配下の御家人達は、後白河法皇より任官を受けることになります。しかし、源頼朝は源義経の行為に激怒し、源氏一門が朝廷の官職に就くことを、禁じた命令に反していたとして非難しました。さらに、源義経の傲慢さに言及する報告があったことも、源頼朝の心証を悪くしていました。源義経と任官を受けた御家人達は源頼朝より鎌倉への帰還を禁じられますが、源義経はこれも聞き入れず、平宗盛・平清宗父子を護送する名目で関東へ向かいます。しかし、途中で止められたため、平宗盛と平清宗のみが鎌倉へ送られた、ということです。
平宗盛は敗軍の将として源頼朝と対面し、命乞いをして源頼朝に失望された後、京へ返され、息子達と共に処刑され、男系の血筋は断絶しました。後世の記録では、彼の能力や性格について否定的な評価がされていましたが、最近では、彼の情に厚い面が再評価されています。平氏一門の残りは、出家して隠棲するか流罪となっりました。
義経の死
源頼朝は平氏一門の処分を終え、鎌倉幕府の樹立に向かって進んでいましたが、弟の源義経の処遇に悩まされました。結果、源義経は追討令を受け、奥州藤原秀衡氏に匿われたが、1187年10月29日に藤原秀衡が病没すると、1189年4月30日、源頼朝の圧力に屈した藤原秀衡の嫡男、藤原泰衡によって襲撃を受けます。
約500の兵を率いる藤原泰衡に対して、迎え撃つ源義経の兵は10数名。多数の敵勢を相手に武蔵坊弁慶は、源義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、敵の矢を身体に受け立ったまま絶命。その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれることになります。いよいよ最後と悟った源義経は抵抗をせず、機を見計らって妻子を手にかけ、自らも後を追います。その後、源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くことに成功しました。