62/366日・・・3月2日は何の日?
- 中国残留孤児の日
- ミニの日
- ミニぶたの日
- 後楽園開園記念日
- 遠山の金さんの日
- 出会いの日
- サニの日
- ミニーマウスの日
- 少額短期保険(ミニ保険)の日
- ご当地レトルトカレーの日
- ミニストップの日
- スーツを仕立てる日
- meethの日
3月2日が誕生日の有名人
- 魚住りえ
- 島崎和歌子
- 伊沢利光
- ジョン・ボンジョヴィ
- 中田大輔
- 小川千菜美
- 優木まおみ
- ミナセ
- 鄭大世
- ダニエル・クレイグ
- 松田大輔
- 斎藤亜美
- イ・ホンギ
- 川尻蓮
- カレン・カーペンター
中国残留孤児の日
<中国残留孤児の日>由来
1981年3月2日、厚生労働省の招待で中国残留日本人孤児47名が初めて肉親捜しの為に公式に来日しました。このうち29名の身元が判明しました。初めて公式に来日したこの日を中国残留孤児の日と定めました。
中国残留邦人等
満蒙開拓移民
1931年9月18日の満州事変以降、日本政府の国策によって推進されていた日本の内地から満州への移住計画の「満蒙開拓移民」が実行され、1932年10月15日の移民開始から1945年まで14年間に開拓民として日本から満州・内蒙古に約27万人が移住しました。
当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け深刻な経済不況に陥り、地方の農村地域は娘を身売りさせる家が続出するなど困窮、疲弊しきっており、農業従事者の移民志向も高いことから大規模な移民となりました。
ソビエト連邦の対日参戦
第二次世界大戦末期の1945年8月8日に、ソビエト連邦は日本と結んでいた日ソ中立条約を一方的に破棄し宣戦布告。8月9日に満州国へ侵略しました。関東軍(大日本帝国陸軍の総軍の一つ)はトラックや列車を確保し軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難しましたが、翌日以降に侵略の事実を知った多くの一般人、民間人は移動手段がなく徒歩で避難することになりました。
成人男性は関東軍の命令によりソビエト連邦に対峙していたことから避難民の多くは老人や婦人、子供たちとなりました。ソビエト連邦軍侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊し、避難民の多くは帰国困難となり日本人収容所に収容され帰国が足止めされました。収容所での越冬中に寒波や栄養失調、病気で命を落とす者が続出して家族離散や死別の悲劇が生まれました。
中国残留孤児
日本政府は、この避難の最中に身寄りがなくなった孤児で、両親が日本人であって、日ソ開戦が直接の原因で両親が死亡、もしくは生き別れとなり、当時 12歳以下の者を「中国残留孤児」と定義しています。孤児たちは縁故または人身売買により中国人の養子として生活していくことになります。
中国残留婦人等
一方、13歳以上の避難民に関しては、「任意のうえ現地で結婚しあるいは残留したもの」として「中国残留婦人等」と呼称されています。13歳以上の残留者は女性が圧倒的なので「中国残留婦人」と呼ばれています。
「中国残留孤児」と「中国残留婦人等」、両者を合わせて「中国残留邦人」と称しています。
中国残留邦人問題
中国で人生を過ごすも、望郷の念に駆られ、晩年は母国で平穏に暮らしたいと念願し、日本に帰国してきた中国残留孤児ですが、政府の残留孤児に対する政策は、十分ではありませんでした。ほとんどの者は日本語の読み書きができず、当然の結果として職を得ることは非常に困難であり、日常生活にも多くの支障を生じています。
中国残留婦人に関しては「自由意志にて中国に残留した」とみなされ、中国残留孤児以上に帰国も困難でした。また、婦人たちの多くは中国人男性と結婚し家庭を築いていたため、戦争で家族を失った彼女たちにとって現在の家族と離れて祖国へ戻るという選択ができず、中国に留まる人も少なくありませんでした。
日本に帰国しても文化や言葉の問題等で苦労する中国残留邦人ですが、現在は高齢になり介護問題、又、2世も7割は、日本語を十分理解できず苦労しており、充分な支援策が求められています。